昭和42年03月26日 朝の御理解



 信心が進むに連れて、おかげの方の進展も、又、それに伴うてくるものである。ために、まず、どうでも、信心が進展していかなければならない。信心が進んでいかなければならない。そこで、信心とは、本心の玉を研ぐものであり、信心とは、日々の改まりが第一だと教えて下さるのでございますから。そこのところを焦点をおいて、日々信心のけいこをさせて頂いておるのでございます。
 咋日私は、ある方のお取次ぎをさして頂いたのです。本当に日々の改まりということに、まあ言うなら一生懸命に、そのことを日々お取次ぎを頂いて、日々そのことに精進をしておられる訳なんです。ところがおかげの進展というのが日々おかげを頂いておる。蒙っておるということは、間違いないのですけれども。おかげが広がっていかん。言うなら日勝り月勝り年勝り代勝りと仰るのでございますけれども。
 日勝り月勝り年勝り代勝りになっていかない。そこんところをお願いなったんです。そしたら自分の足元のところを、こうやっていつもずっと掃わいておられるというだけと言ったような感じのお知らせを頂くんです。なるほど誰でもない彼でもない。自分自身が自分自身が改まっていく以外にないのだと。自分が研いていく以外にないのだ。人じゃない。誰じゃない自分自身なのだと。
 これがまあ、椛目の椛目のという訳じゃないですけども、私はそのことにいつも焦点を、私自身もおいている訳ですけれども。ところがですね。自分のところだけを掃わいておるというのは掃わかなければならないほどに、自分自身が毎日毎日散らかし毎日毎日汚しておる。咋日も今日も同じこと。毎日汚しておる。そこんところを掃わいておるだけだから、言わば、掃わいていく。
 美しゅうなっていく雰囲気というものが、ひっとつも広がらない。広がらないから、やはり、おかげも、また、同じことだということになるのです。勿論、自分のところも、大事にしなければならんのでございますけれども。自分のところを掃わくと同時に、自分の周囲も、やはり、綺麗にしていかなければならないと。そこんところに、私はおかげの進展というものが、いや、信心の進展というものがです。
 なされていかなければならないところに、おかげの範囲が何時もほんの、自分の足元のところだけということになるんじゃないだろうか。椛目にご縁を頂いておるほどしの人ならば、本当に日々の改まりということにやっぱり焦点を、皆さん置いておられるでしょうけれどもです。それとてもいつも同じところを、いわばぐるぐるしておる。いわゆる堂々巡りの信心だということなんです。
 咋日失敗したところを、今日も又やっぱり失敗しておる。ですからそこんところを気が付くから、やはりそこを綺麗にしようと努める事だけは間違いないから、努めておるのだけれども、それだけのこと。私は思うのです。本当に天地と私共のつながりということ。私共天地金乃神、天地の親神様とおすがり申し上げるところの天地の親神様と、私共の関わり合いというものは、確かに天地の親神様だなぁ。
 なるほど、私共の親神様だなということをです。様々なおかげの中に、それを実感することが出来ます。その気になって向かえば、なるほど親神様だなあと思うように、情も細やかに私共の上にお働きを現して下さる神様なんです。その天地の動きと私共の心の動きというものがです。ひとつになる。そこんところを、天地の道理に基づいた生活と。天地の大恩を知って、天地の大恩に対して神恩奉謝の生活をさして頂く。
 喜びの生活をさして頂くところにです。天地が私共一人のために、いや一人一人の為に、こんなにも細やかに微妙にお働き下さるということを、お互い体験されておる事であろう、私もそこんところを思うのですけれどもです。そこが分かったんですから。私共はいよいよ天地の働きをです、いや天地の働きも特に、人間氏子の為にお働き下さるその働きかけというものをです。十全にする為に完壁なものにする為にです。
 私共が何をもって愈々精進していかなければならないかと言うとですね。結局教祖の神様のね実意丁寧神信心の生活をさして頂く以外にないのでございます。実意丁寧神信心の生活というのはです。そのくらいに天地に響くのです。天地に通うのです親神様の心に添うのです。私共の実意丁寧神信心というものがなされない所にです。私共が何時も自分の足元ばかりを掃わいておかなければならんと言った様な結果になるのです。
 全ての事を実意をもって、実意丁寧にそこんところを、そういう実意丁寧神信心という生活がですなされていかないところにです。やはり咋日どころではない。朝掃わいたところを又掃わかなならん。だからその辺に散らかっておっても、そこんところを掃わくとこが出来ない。代わりに自分の足元のところだけこうやって足元のとこ。しかも動きもしない。ただ自分のところを、こうこやって掃わいておるだけ。
 信心はなるほど、本心の玉を研ぐものであり、日々の改まりということなのですけれども。ですからそこんところがですね、実意丁寧神信心にならせて頂こうと精進さして預けばです。おのずとそこんところはもう綺麗になっていくのです。しかもこれが一番天地に通うのです。天地の道理に合うのです。天地の親神様のお働きを、思えば思うほどです。その神恩奉謝の生活をさせて頂くことが、神様へのお札なのです。
 神様のおかげを頂いておるということをです。そのことを、お礼のしるしに、今日も実意丁寧神信心を、いよいよ極めさせて頂こうとする願いを立てさせて頂かないところにです。いつもいつも、自分の足元のところだけを、自分の在り方の中にです。私は椛目時代に勝手の方に貼っておきました。家族の者が実意丁寧神信心になるように、実意な言葉実意な態度実意な心。私これを書いて貼っておきました。
 実意な心をもって実意な言葉をもって、実意な態度をもって私共は何事にも、全てを大切にして当たらして頂こうとする、願うところにこれを汚さんですむ。失敗せんですむ。人にこりを積ませんですむ。自分も又心を汚さんですむおかげを受けられるのでございますから、ここんところが段々段々、広がっていく訳でございましょうが。実意丁寧神信心。全てのことを大切に。の生活に私共が入らせて頂くという願いをです。
 立てさせて頂くということが、天地の親神様のお心に添うことなんです。天地の道理を体得し、天地の道理に基づいた生活をさせてもらう。天地の大恩を、いよいよ分からしてもろうて、天地万物一切のものに、その神恩の広大無辺さを分からせて貰うて、有り難いもったいないの生活に入らして頂くということは、そのまま実意丁寧神信心の生活に入らして頂くことなんです。その実意丁寧神信心ということがです。
 おのずと心の上に言葉の上に、態度の上に現れていくところにです。天地を動かすというよりもです。天地の働きかけをそのまま私共一人一人の上に、受けていけれるおかげの受けものというのが出来ていくのです。私共が本当に、少し自分の心を神様に向けさせて頂いて、金光大神のお取次を頂いて、おかげを蒙って参りますと、成程親神様だなぁと、成程天地の親神様だなぁと思わなければおられないほどにです。
 言うなら痒いところに手が届くように、撫でたりさすったり場合には、されるように場合には成程、親神様だなあ。間違えばこのようなお叱りを受けるということをです、体験させて頂いておるのでございますから。その親神様が私共の上にどうぞ信心して、おかげを受けてくれよと願うておられる、その願いに応えるということが、いよいよ実意丁寧神信心の生活を極めさせて頂こうとする願いにたってです。
 今日一日が実意丁寧の一日であることを願い。そしてそうあることを務めさせて頂くということが天地の働きかけをそのままに、私共一人一人の上に受けることが出来てくるということになると、私は確信致します。なるほど椛目の方達は私がもう日々の改まりぞ。本心の玉を研くことぞと。これを繰り返し申しておりますから、確かにそこに取り組んでおられます。けれども実意丁寧神信心の生活になろうとする願いがないですから。ただはぁまた失敗した。
 そこんところをお詫びしたり掃わいたり、清めたりしておるだけのこと。咋日私がある方をお取次させて頂いた。ただ動きも何もせんほんな同じとこ。同じとこばこうこやって、一生懸命やってくれて、掃わきよんなさるというだけではです、なるほどそこだけであって、おかげの進展を望むことは出来ません。またそこんとこの願いを立てる事が、いよいよ信心が進んで行き進展していくことであると言うことを思うのです。
   どうぞ。